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保育は種まき

山梨県の『森のようちえんピッコロ』へ、今年も行ってきた!

子ども達は、自分の足で立ち、より良くなろうと前へ進んでいる。どんなに非効率的に見えたって、大人は口出し手出しをしないでいるから、子ども達は自分で一生懸命考えて試行錯誤する。

そこから得られる達成感、自己肯定感は、それはそれは半端ない‼

 

風のいろは、「子どもにとって必要なことだけをするようちえん」を目指している。

そんな風にはっきりと決めることができたのは、ピッコロの子ども達とそれを支える大人達に出会えたから。

いつも、心を寄せることを一番に子どもと向き合うピッコロの大人達。

子ども達は、安心して思う存分自分の思いを表していた。喜びだけではなく、泣いたりすねたりももちろん。

子ども達は、誰かが嫌な感じをしていると察知したら(言葉ではっきり言ってなくても態度や表情からでもちゃんと読み取り)その子に寄り添って「どうした?」「〇〇が嫌だった」とか「〇〇してほしかった」とかを聞き取り、心が戻ってくるまで何とかしようとする。寄ってたかって(!)

なので、どうしても自分の気持ちに向きあわざるをえない。3才の子も、自分がどうしたかったのか、何が嫌だったのか自分の悪かったところとか、ずるさや弱さなんかにも...

森のようちえんでは、『信じて見守る保育』を大切にして、大人が余計に手出しや口出しをしない。『見守る』と聞くと、こどもがやることを何でも放ったらかしにして好き放題させることだと勘違いするかもしれないが、それは絶対に違う。

 

視察の中で、3才の子が植えてあったブルーベリーの木の枝を折ってしまった。枝につかまってその先に止まっていたトンボを捕まえようとしたらしい。周りの友達(4才児)がその事情を分かった後で、「木が嫌な思いをしているから(木に)謝ったほうがいい。」と言った。その子は「謝らない。」と言った。

「謝らないとパイン組さん(年長組)になっても謝れないんだよ。」「大人になっても謝れないんだよ。」とか「赤ちゃんはしゃべれないからしょうがないけど。」とか、周りの4才児たちがいろいろと言っている。でも「謝らない。」

そのやり取りを見ていた先生は、「お母さんと一緒なら謝れる?」と聞いた。すると、「うん。」と言う。

一人では無理という気持ちか。

でも、4才児は「お母さんが一緒にやっちゃったのなら(お母さんも)謝らないといけないけど、そうじゃないから〇君が謝らないといけない。」と言った。

4才児がここまで成長しているし、先生が言うことが絶対にいいとも思っていない。

 

それでも、「謝らない。」

いろいろとやりとりしたが、結局「じゃあ、代わりに謝ってあげるよ。」と4才児達。

それで、その場は終わったのだけど...(先生的には、まだ続きが必要だなと考えていらした)

 

その後の帰りの会で、また違う事件(?)が起こり、またみんなが心を寄せてはやり取りをしていたら、先ほどの3才児が出てきて(今までみんなの前に出てくることもあんまりなかったらしい)「代わりに謝ってあげる。」と言ったのだ!!

 

おーっ!

 

彼は、さっき(数分前)ずっと「謝らない」を繰り返したいたが、みんなの声がちゃんと聞こえていたし、心に入っていた。

そして、次にはすっとそれを与える人になっていた。

 

子どもはすごい!

 

子どもに大人がすることは、全部種まきだと私は思っていて、何かを伝えてもそれがすぐに花を咲かせるようなことはないなと思っている。「お友達に優しく」とか「悪いことをしたら謝る」とか伝えて、「ごめんなさいは?」「ごめんなさい。」とすぐに言ったとしてもそれは、本当に心にしみているわけではないでしょう。そんなに簡単に花は咲きません。それは、明日か、半年後か数年後か分からない。

 

3才の彼だって、与えてはいたけれど、次に自分が謝るのかといったらそれは分からない。でもずっと種まきと水やり肥料やり(年上の友達にいっぱい優しくしてもらったり、格好いいところ見せてもらったり、格好悪いところも全部受け入れてもらったりして)がなされていく。

 

ピッコロの保育を見るとそんな途方もなく気長な花を咲くのを待つ仕事が、とんでもなく素晴らしいと思うのだ。

 

かおりん